ゲイひとり大地を行く

50歳ゲイのひとりごと。19年間の社会不安障害との闘いを乗り越え、現在はより良い人生を求め日々模索中。

Time flies

いつになったら梅雨が明けるんでしょう.....

関東地方、今日は久々に日差しが戻りましが、明日から再び曇りと雨の日が続くようで天気予報を見る度に気がめいります。先日、群馬県前橋市の10日間の日照時間の合計がたったの7分!で野菜が全然育たないというニュースを見ましたが、僕が育てている花たちも葉っぱが生い茂るだけで花が咲かず、それも日照不足が原因だとつくづく実感しています。

気温の低さも26年ぶりだそうで、8月になれば平年並みに戻るそうですが、やはりこの時期は暑い、暑いと団扇片手にヒーヒー言ってる方が夏らしくていいですね。

26年ぶりの冷夏ということは、前回は1993年のこと。1993年と言えば、僕が初渡米し人生が大きく転換した1年であり、5月には渡米したので、1993年の日本の冷夏は経験していないことになります。ですので、今年のこの日差しのない涼しい7月というのはもしかしたら僕にとって人生初の冷夏なのかもしれません。(子供の頃はどうだったかわからないが、記憶に残る夏という意味で考えた場合

この涼しい夏にも驚きですが、初めてアメリカへ行ってからもう26年の月日が流れたことに驚きです。そして、今日の昼間の番組で石原裕次郎の33回忌特集を放送していましたが、こちらもそんなに経つのかと驚きました。

どういうわけか、僕は石原裕次郎が亡くなった日のことを今でもはっきりと記憶しています。1987年7月17日のことですから、僕が中学3年生の時でした。その日は青空が広がる爽やかな日で、夏休み開始を3,4日後に控えた僕は学校から帰ってひとりTVを見ていました。すると突然石原裕次郎死去の緊急ニュースが。よほど僕は驚いたのでしょう。大慌てで母親を探して、その時母は叔父さん(父の弟)と親戚のお兄さんと外で会話中だったのですが、僕はそこまで全力で走っていき、「お母さん、お母さん、石原裕次郎が死んじゃったんだって!」と伝えると、母も驚いて一緒に走ってTVまで戻ろうとするその時までのシーンが鮮明に記憶に残っています。その時の、自分、母親、叔父さん、親戚のお兄さんの服装、天気、気温、明るさ、全ての雰囲気までもどういうわけか鮮明に記憶に残っています。その夜のTV番組の殆どが裕次郎死去の緊急特番に差し替えられたのも記憶にあり、よっぽどの大スターだったんだなぁと改めて思います。(裕次郎は聖子ちゃんと神田正輝の仲人でもありましたからね、聖子ファンの僕にしてみたら裕次郎に対して何かしらのポジティブな思いがあったのでしょう

そして僕のハワイ大学卒業式に出席するために母がホノルルまで来た際、一緒にホノルルのカハラ地区という超が100個ぐらい付く高級住宅街にある石原裕次郎の別荘まで行き玄関前で記念写真を撮ったのも良い思い出です。

昨日の夜、TV番組で「志村けんが属しているグループ名は?」という問いに、答えは勿論"ザ・ドリフターズ"ですが、「バカ殿グループ」とか「石原軍団」と答えていた平成生まれの若者がいて思わず絶句してしまいました。「石原軍団」と答えた子は「石原軍団」がお笑いグループだと勘違いしている様子で、最初は「馬鹿か?この子は」という思いで見ていたけれど、自分だって自分が生まれる前や子供の頃の事を聞かれたってわからないのだから、今の子が石原裕次郎も石原軍団も知らないのも当然のことで、それだけ月日が流れたんだなということをしみじみと感じました。

それにしても、自分の思い出が26年前、33年前.........と言うようにどんどん古いものになっていくのは、ちょっと寂しい気分でもあります。

YouTubeっちゃ、何でもあるね↓↓↓ 


石原裕次郎 逝去報道

 

今は1日も早く梅雨が明けることを願うばかり.......

では、また~